男はしばらく黙っていたが、短く息を吐いた後、言葉をこぼした。「そうか……すまんな。余計なことを聞いた。俺としても、この地を蹂躙するような連中を心良く思っちゃいない。協力はさせてもらう」ほんの一拍置いてから、男は続けた。「それで……リノアとエレナってのは、腕は立つのか?」「それなりに戦えるはずよ」エレナは弓を自在に操る腕前を持ち、遠距離からの精密な射撃で敵を翻弄する。彼女の視線は常に冷静で、狙った獲物を逃すことは滅多にない。恋人のシオンが森の奥深くの危険地域に足を踏み入れる時は必ず帯同していたほどだ。その一方でリノアの能力は未知数だ。本人も気づいていない特異な力が備わつているのは確かだが……。時にリノアは周囲に奇妙な違和感を生じさせ、見る者の認識をかき乱した。リノアと行動を共にし、それを肌で感じたことが何度かあった。ある日、風のないはずの森で、木々の葉がリノアの歩みに合わせて微かにざわめき、足元の土がわずかに波打った。その瞬間、アリシアの視界に異様な光景が広がった。風景の一部が別の層にずれたような錯覚——いや、錯覚と呼ぶにはあまりに確かな異常だった。液体のように揺らめく空──突如として数十もの蝶に変わり、空高く舞い上がった一頭の獣──その蝶たちは重力を拒むように空へ広がり、森の色彩さえ塗り替えていった。あれは一体、何だったのだろう。森そのものが、リノアの存在によって再構成されているかのようだった……リノアは何事もなかったかのように振り向いていたが、あれは紛れもなく現実だった。幼い頃の体験とはいえ、あれが夢であるはずがない。私はリノアに何かを見せられたのだ。「さっきも言ったが、ラヴィナはこのアークセリアにとって重要な位置を占めてる人物だ。フェルミナ・アークに入った者が、そう簡単に彼女に辿り着けるわけじゃない」男は体を椅子に預けたまま言葉を紡いだ。その声は淡々としているようでいて、どこか警告のようにも聞こえた。「ラヴィナに辿り着くまでには、いくつもの試練が待っている。しかも屋敷まで着けたとしても、そう簡単に対面できるわけではない。まずは召使いの一人に会って認められること。それがラヴィナと会うための最低条件となっている」静寂が再びふたりの間に落ちた。それは、道のりの険しさを物語る沈黙だった。「もう足を踏み入れてしまった以上
「すでに動き出した者がいるが、あれは君たちの仲間か? 二人の女がフェルミナ・ア―クに入ったと報告を受けている」空気の膜を押し破るように男が口を開いた。「ええ、そうよ」アリシアは声色を変えずに答えた。アリシアの動きは最小限だった。微細な表情の変化も、言葉を継ぐ間の沈黙も、すべてが意図的に抑えられている。 必要以上に情報を渡すつもりはない。「その二人はラヴィナに会いに行ったらしいな」男は一歩間を置いて話した。「ラヴィナ?」その名に聞き覚えはなかった。予想外の問い返しに、男の表情がごくわずかに変わる。「……何だ、知らないのか」男があざけたわけではない。ただ意外そうな口調だった。鉱石に関心がない。きっと、そう受け取られたのだろう。そして、フェルミナ・アークを巡る鉱脈の事情や、アークセリアに広がる自然破壊の問題についても、私がほとんど把握していないことが、男には伝わってしまったはずだ。アリシアは言葉を返さなかった。実際にラヴィナの名も、アークセリアの成り立ちやその歴史も、実のところ詳しくは知らない。 思い返せば、ここに来るのは舞踏会の招待に応じる時くらいで、深く関わる機会もなかった。 そんな私の反応を男は意外に思ったのだろう。「ラヴィナってのはフェルミナ・アーク及び、その周辺を統括する管理者だ。この地に眠る希少鉱石の流通や保護について、誰よりも精通している。だから自然破壊には人一倍、敏感だ。今は気が気ではないだろうよ。彼女の判断一つがこの地域の均衡を左右すると言われている。それほどの影響力を持つ人物だ」」男は椅子にもたれたまま、正面に立つアリシアを見上げた。視線に動きはない。だが言葉の一つ一つが、その眼差しと共に体温を奪うように響いてくる。「一つ聞いてもいいか?」 男の言葉の奥には、単なる興味以上のものがある。「君たちは自然に関心があるわけじゃなさそうだな。だったら、どうしてヴィクターを追うんだ? そいつが、ここで何しようが関係ないはずだが」その声に焦りはなく、ただ論理の綻びを指摘するものだった「……関心がないわけではないけど、正直に言って、それが理由じゃない」アリシアは短く息を吐き、男の目を真っすぐに見返した。懐かしさとも痛みともつかぬ感情が、その瞳の奥に宿る。「フェルミナ・アークに来たのは、親友を心配してのことよ」
リノアの瞳はまだぼやけていて、意識の端には霧のような余韻が残っていた。 混乱は消えず、胸の奥には、まだ焼け焦げた記憶の残響が渦巻いている。 涙は流れず、身体の感覚もまだ鈍いままだ。だけど、この感覚は何だろう? 胸の奥を締めつけていた重苦しいものが消えている。 リノアは心が軽くなっていることに気付いた。 燃えたのは身体ではなく、記憶? …… もしかしたら私が見たのは、あの時の選択が導いた、もう一つの未来だったのかもしれない。 オークの木の下で待ち続けなかった、その先に広がっていた運命の断片…… 父と母は決して私を捨てたわけではない。 必死に、守ろうとしてくれていたのだ。 リノアは、ようやく気づいた。 あの時、母の言葉を守って待ち続けたという選択は、間違いではなかったということに。 幼い頃のあの日、母は確かにオークの木の下へ私を連れていった。 安全な場所に残して、ひとり静かに立ち去り、戻って来なかった、その理由── あの映像が示していたものが真実だとすれば、答えは明白だ。 母は父と共に何者かに捉えられていたのだ。 幼かった私は、それが見捨てられたことのように感じてしまった。けれど今は違う。 あれは母が私を守るために選んだ、最後の手段だった。あの選択の中に、どれだけの決意と苦悩が込められていたのか。今なら、分かる。 記憶の縁に浮かんでくるのは、両親を捉えたあの者たちの姿── 森を無残に切り裂いていた人影たちとは異なる。 彼らの纏っていた服には見覚えがあった。 くすんだ紋章、生地に刻まれた古びた意匠── それが何を意味するかを、物心ついてから学んだ書物や人々の語りの中で、リノアは知っていた。 それは、戦乱の時代に争った者たちの装束にほかならない。 彼らはかつて、猛威を振るい、多くの民に恐れられていた。 戦いが終わった後、彼らの勢力は拡大の途を遂げ、存続していくものと見られていた。 しかし、火種は外にはなかった──それは内側に潜み、静かに燻っていたのだ。 戦後、彼らの中で始まった激しい権力争いは、組織の骨を砕き、やがて崩壊へと導いていった。 権力争いに敗れて歴史から消えたはずの集団。 今となっては、誰もが彼らは滅びたと信じている。 しかし本当に、そうだろうか? 最近、森の奥に見かけるようになった人影。 ひと目では
地面に爪を立て、リノアは叫んだ。 喉が焼けるように熱い! 叫びは言葉にならず、ただ炎の奔流へと呑み込まれていくのみ。 まるで終わりのない悪夢……──父と母は無事なのだろうか。 リノアの胸の奥に焦りの感情が渦巻く。 リノアは焼けるような空気をかき分け、必死にその姿を探した。 しかし、そこにいたはずの父と母の姿が、どこにも見当たらない。幼き日の自分も、父と母の元に向かって行ったはずなのに…… まるで最初から、そこに何も存在しなかったかのように、ただ森だけが燃えている。「一体、どこに……。確かに、そこにいたはずなのに……」 歪んだ空気の中で、リノアの思考が揺らぎ始める。 リノアは周囲を見渡した。 地面の裂け目がぼんやりと揺らぎ、木々の輪郭も霞んでいる。燃え盛る炎の映像と音だけを除いて…… リノアの意識はその曖昧な狭間で波に呑まれるように漂った。 何が真実で、何が幻想なのか、それすらも判然としない。 肌が焦げ付く、あの痛みの感覚も、いつの間にか薄れている。 火の奔流に包まれている最中だというのに、一体、これは……。身体が現実と乖離している…… この世界の端に独り、浮かんでいるような不思議な感覚── リノアはその感覚に抗わず、静かに身を委ねた。すると程なく、炎の中心に奇妙な揺らぎが現れた。 風に抗うようにゆっくりと逆巻く炎── 火の奔流は、一点を起点に風と逆向きの軌跡を描きながら、空間そのものを軋ませるように捻じれていった。 現実がほどけていく始まりかのように。 その先に広がっていたのは記憶とも夢ともつかない、過去が未来を侵食した空間だった。 色はあるのに、名がつけられない。 光は差しているようでいて、照らすものはどこにもない。 時間は粒子のように漂い、触れようとするほどに空間に溶けていった。 そこにあるのは感覚だけだった。確かなものは、ここには何一つ存在しない。 リノアの輪郭もまた、次第に曖昧になっていき、誰かの遠い夢が残した残響として、揺らぎの中を漂っていた。──どこからか音が聴こえる。 意識が空間に溶け出していく中、遠くから聴こえる微かな囁き──これは言葉ではない。 リノアは輪郭を失った意識のまま、その音に導かれるように深く、そして静かに空間の奥へと沈んでいった。──何だろう? この懐かしい声……
「セラ、その目撃した連中は何をしていたんだ?」 男の声が沈黙の間を縫うようにして室内に響いた。油断のない鋭い目をしている。 セラは少しだけ目を見開いて、首をすくめた。「森の中で何かが光っていた。青白い光……。怪しく不気味で周りの空気まで揺らぐような感じだった……」 セラの顔に不安の影が宿る。「青い光……」 男の眉がわずかに動いた。「おそらく、それは鉱石が発した光だ。最近、あちこちで聞くようになった」 男は虚空に視線を投げて、呟くように言った。発せられた言葉が部屋の空気を重くする。 男は言葉の重さを測るように一拍、間を置いた後、さらに続けた。「街道沿いの崖が崩落したのは、それが原因だろうな。外からの圧力というよりは、内側からの力。地盤そのものが崩れていた。変色した土、硬質化した葉や根──。自然現象という奴もいるが、さすがにそれはない」 重い沈黙がまた一つ、部屋に降りた。 あれは何かを壊すための光…… セラの胸の奥に、あの青白い光がじわじわと蘇る。無意識のうちに、セラの手が膝の上で固く結ばれていた。「それがエクレシアの内部でも起きてるってこと?」 セラの声音は驚きよりも、すでに内側で答えに気づいてしまった者のそれに近かった。「そう考えるのが自然だ。運河を流れる水にも影響が出ているという話だからな。内部で何かが起きていると見て間違いないだろう」 男は頷きもせず、ただ言葉だけを置いた。言葉の先端が空気に沈んでいくような間を挟み、男はさらに続ける。「目撃された五人が資源採掘の為だけにエクレシアに足を踏み入れたとは考えにくい。もっと深い目的があるはずだ」 セラの喉がかすかに動く。 何かが確実に崩れている──そんな直感だけが、胸の奥に輪郭を持ち始めていた。 二人の遣り取りを見守っていたアリシアが口を開く。「リノアが言ってた。森が息をしていないみたいだって」 アリシアのひと言が場に張り詰めた糸を一本、ぴんと弾いた。 言葉を選ぶのではなく、すでに胸の中で何度も反響した想いを、ようやく外に出したという感じだ。肩の力は抜けていて、表情も変わらない。 森が息をしていない── それは比喩ではなく、自然に囲まれて生きる者たちなら直感で察していたことだ。特にリノアや、その兄のシオンは敏感に感じ取っていた。 たしかに兆しはあった。 森の緑は褪
──ヴィクターの暴走は、どんな手を使ってでも止めなければならない。それはリノアの為でもある。「グレタに関する調査報告書だ」 男はそう言って、アリシアに資料一式を手渡した。紙の角が擦れる音が、静まり返った空間に小さく響く。 アリシアは紙束を受け取ると、そのうちの一枚にそっと指をかけた。ページがめくられる音は小さく、まるで誰にも気づかれたくない秘密をほどくかのようだった。 アリシアの目が文字をなぞる。 筆跡は整っている。だが、気になるのは所々に筆圧の揺らぎ…… それは記録というより、祈り、隠しきれない焦燥、そして届くかも分からない誰かへの報せ。 紙の上に残されたその情熱が、記録以上の意味を持っていることをアリシアは感じ取った。 アリシアは視線を宙に泳がせ、長い睫毛の影に言葉にならない感情を沈めた。そして、ゆっくりと息をつく。 これは、ただの報告ではない。意志の痕跡だ。《禁足地・エクレシア領域外縁にて複数の不審人物を確認》・対象は五名。先頭はグリモア村村長・グレタとみられる人物、ならびに大型の剣を携えた女戦士。・残る三名は黒のマントに全身を包み、詳細な特定は不能。・全員が禁足地領域内部より出現したと推定されるが、侵入時の記録は存在せず。・目的不明、 アリシアは報告書に目を落としたまま、一点を見つめた。これらの文字の先に踏み込まなければならない真実がある。そんな予感が脈のように鼓動を打ち始めていた。 沈黙の中、アリシアは、そこに刻まれたわずかな綻びすら読み取ろうとするかのように、丹念に文面を追った。「五人……それに黒いマント?」 セラが報告書を覗き込み、目をぱちぱちと瞬かせた。「クローブ村の近くで見た人影も同じくらいの人数だったよ。しかも全員、黒いマントを着てた」 その声には驚きとほんの少しの不安が混じっていた。「五人は居たかな。怖くて近寄れなかったから、どんな人たちなのかまでは分かんなかったけど……」 セラの声の調子は軽いが、その目に浮かぶ色は真剣そのものだ。「五人一組で動いているのかもしれないね。組織的なものかも」 アリシアは報告書の文字を追いながら、淡々と推測を述べた。 一つの偶然なら見過ごせる。だが、二度、同じように現れた五人という数字に、偶然という言葉は当てはまりそうにない。 アリシアの視線は紙の上にありながら、